【写真の見方】
画面中央の◯ボタンマウス左ボタンを押下した状態で、左右にドラッグすると左右の写真をスライドさせて見比べることができます。
※スマートフォンやタブレットの場合は、◯ボタンロングタップ(長押し)して左右にドラッグすることで写真をスライドできます。
仙崎の生活課
【写真の解説】
左の写真は、1965年(昭和40年)頃の仙崎の中学校に近い県道を挟んだ海側の様子を映したものです。当時は閉山後間もない時期で、右上部には高層の炭鉱住宅、手前側は生活課と記されていたのでスーパー(売店)であったと思われます。閉山前には賑わっていたと思われるこの場所は、写真からは人通りも少なく寂しさがうかがえます。
右の写真は、2022年(令和4年)の宿泊リゾート施設であるアイランドナガサキのプレイキッズランドの建物を写したものです。炭鉱時代にスーパーや社宅であった場所は、現在は多くの観光客で賑わうリゾートホテルとなっています。かつて、島民の生活を支えていたこの場所は、現在はカフェや温泉施設などで観光客が楽しむ場所へと変貌しました。

 

築港から日鉄鉱業所事務所を見る
【写真の解説】
画面左の写真は、1962年(昭和37年)の伊王島町築港付近の様子です。日鉄鉱業所の石炭移送用の建物や吊り階段、営業所事務所が建っています。
画面右の写真は、2021年(令和3年)の長崎市伊王島町築港付近の様子です。日鉄鉱業所の事務所へと通じる吊り階段や石炭輸送用の設備は取り払われ、それらの名残りは全くなくなっています。港の背後地はアイランドナガサキのペット連れ専用の宿泊施設「バークロッジ」脇のドックランになっています。

 

賑わいを見せる島の通り
【写真の解説】
画面左の写真は、1962年(昭和37年)の伊王島町仲町付近の様子です。当時の人口は、7,300人でした。町内の行事が催されると多くの人で賑わいました。
画面右の写真は、2016年(平成28年)の長崎市伊王島町の様子です。この年6月の人口は699人です。炭鉱が閉山すると多くの人が伊王島をあとにしました。現在の人口は、炭鉱の時代と比較すると十分の一以下になりました。自然豊かでリゾートの美しい島が抱える問題のひとつです。

 

馬込教会と漁業用の網干場
【写真の解説】
左の写真は、1962年(昭和37年)当時の馬込教会付近の風景です。伊王島では、島という地理条件から、炭鉱開発される以前から漁業が営まれていました。教会のすぐ下では、漁網を乾かすための竹のサオがずらりと並べられていました。
右の写真は、平成28年の伊王島馬込教会付近の風景です。教会のふもとは整備され、民家が立ち並らんでいます。伊王島を訪れる観光客のために、馬込教会への案内板や自転車の駐輪場も設置され、かつての網干場の面影はみられません。今ではリゾートしてのイメージが先行する伊王島ですが、わずか50年前は、主要産業の石炭産業だけでなく専業での漁業を営まれていた島民も今より多くおられました。

 

石炭が山のように積まれていた築港付近
【写真の解説】
左の写真は、1962年(昭和37年)当時の伊王島築港前の貯炭場です。伊王島の石炭鉱山から掘り出された石炭は、一旦築港近辺の貯炭場に集められ、石炭輸送船が来るまで野積みで保管されていました。大型のブルドーザーが積み込みのための整理をしている様子が見られます。
右の写真は、2020年(令和2年)の貯炭場跡の写真です。かつて石炭が山積みされていた場所は、キレイに整地されています。観光客のためのリゾートホテルが建設され、当時の面影はまったくありません。

 

炭鉱労働者用のアパート群
【写真の解説】
左の写真は、1962年(昭和37年)当時の通称:産業道路とその沿線に整然と建てられた炭鉱労働者用のアパートです。高度経済成長の産業基盤であった石炭産業がこの島の主な産業だったためでしょうか、行き交う人々も多く、アパートのベランダには多くの洗濯物が干されており生活に活気があったことが読み取れます。
右の写真は、2016年(平成28年)の地域センター前の写真です。この通りは県道であるとともに港湾施設からも近く役所や郵便局やリゾートホテルが立地している伊王島地区のメインストリートです。

 

石炭ボタの埋め立て地の今昔
【写真の解説】
左の写真は、1962年(昭和37年)当時の仙崎の母子世帯向け住宅の前から対岸の長崎市中心部方面を映したものです。この土地は炭鉱から掘り出され、不要な土砂(ボタ)を埋め立てできた陸地です。広く荒涼とした埋立地には、ボタを運ぶダンプカーが、ひっきりなしに行き来していました。
右の写真は、2022年(令和4年)の伊王島ふれあい広場から長崎市中心部方面を写したものです。炭鉱時代の副産物で出来た埋立地は、伊王島では貴重な平地で、現在はリゾートホテルのアイランドナガサキのナギホテルとArkLandSpa(アークランドスパ)の間にある広場(伊王島ふれあい広場)になっています。かつて、石炭の島であった伊王島は、観光客がゆったりと時間を楽しむ島へと変貌しました。

 

馬込教会下の炭鉱坑道建設用の丸太
【写真の解説】
左の写真は、1962年(昭和37年)当時の馬込教会です。教会手前の埋立地は、坑道を落盤から防ぐための丸太を備蓄するための貯木場として使われていました。
右の写真は、2016年(平成28年)の馬込教会です。炭鉱時代に山積みになっていた大量の丸太はすっかり姿を消し、今では伊王島を訪れる観光客用の駐車場になっています。

 

馬込教会を取り囲む炭鉱積出し施設
【写真の解説】
左の写真は、1962年(昭和37年)当時の馬込教会です。教会の背後には当時操業していた日鉄鉱業所伊王島炭鉱のベルトコンベアーや石炭積み出しのための建物が見えます。
右の写真は、2016年(平成28年)の馬込教会です。炭鉱が1972年(昭和47年)に閉山して既に40年以上が過ぎています。
かつての石炭の島は、休日をリラックスして楽しむリゾートの島に変貌しました。

 

見晴らしのよい伊王島灯台でスケッチ大会
【写真の解説】
左の写真は、1962年(昭和37年)当時の伊王島灯台です。小学校のスケッチ大会でしょうか。子供たちが思い思いに絵を書いている様子は微笑ましいです。画面右上には炭鉱に勤務する人たちのための住宅が建てられていました。
右の写真は、2016年(平成28年)の伊王島灯台から同じ方向を狙って写した写真です。既に炭鉱は閉山して炭鉱労働者用の住宅群は取り壊され、その場所はすっかり木々に覆われています。左中央に見える小島は、今では陸地と継れ、コスタ・デル・ソル海水浴場として遊歩道も整備されています。また、画面右に見える煙突のある建物は、伊王島大橋が架かる2011年(平成23年)まで稼働していたゴミ焼却場です。人の営みが変遷する中でも、変わらず美しい伊王島の海や島の木々達は、時間の流れを静かに見つめています。

 

沖之島トンネルを抜ければタイムワープ
【写真の解説】
左の写真は、1962年(昭和37年)沖之島トンネルから見た仲町の様子です。炭鉱で働く労働者のための木造住宅が整然と並んでいます。
右の写真は、2016年(平成28年)に同じ角度から沖之島トンネルを撮影した風景です。住宅は無くなり、中央の建物が現在の診療所で、右奥のオレンジ色の屋根の「ホテル唐船江」は解体され、今(令和4年12月)は更地になっています。

 


 

沖之島と伊王島の間で潮干狩りを楽しむ人達
【写真の解説】
左の写真は、1955年(昭和30年)の伊王島と沖之島の間に架かる賑橋から長崎湾側に架かる栄橋を写した風景です。両島の間の狭い海峡は、水深が浅かったため、春の大潮の時期には、島民がこぞって潮干狩りをしていました。当時、2つ島には七千人を超える人が住んでいましたので、旬の貝を目当てに来る多くの人達で、浅瀬は人でいっぱいになったと伝えられています。波穏やかになる春は、炭鉱の島で暮らす人達にとって、水ぬるむ頃であり、海の恵みを楽しめる季節でした。
右の写真は、2016年(平成28年)に同じアングルから写した風景です。護岸工事が進み、船の往来のために水深を深くする工事も行われ、島で暮らす人達の安全を守ることはできるようになりましたが、季節の風物詩がなくなったことは残念です。

 

馬込幼児園から帰る子供たち
【写真の解説】
左の写真は、1962年(昭和37年)伊王島の馬込地区にあった幼児園から帰宅する子供たちを撮した写真です。当時の人口は7千人を超えていました。高度経済成長期の真っ只中で、小さな子供たちが島の中で元気に遊び回っていました。
右の写真は、2017年(平成29年)にほぼ同じアングルから写した風景です。現在の人口は、十分の一まで減少しています。日鉄鉱業所の事務所も解体され、緑静かな佇まいになっています。

 

【伊王島開発総合センター】
伊王島開発総合センターの2Fにある資料室の貴重な写真をインターネットでも閲覧できるようにしました。
下に表示されている地図上の伊王島開発総合センターを「クリック」→「拡大地図を表示」すると写真を閲覧できる画面になります。