伊王島町は、沖之島と伊王島の2つの島で構成されています。地理的な位置で言うと伊王島町は長崎港の防波堤のような位置にあり、角力灘に面する南西部は外洋に面し、おおむね絶壁の海岸線となっています。両島とも海岸からわずかな平地があるものの山が迫り上がり、坂道が多く、新しい建物はほとんどが埋立地に建設されています。その埋立地は、伊王島が炭鉱の島だった時、坑内から掘り出された不要な土砂、いわゆるボタを島の内海側に捨てた結果、出来た埋立て地です。現在の伊王島は周囲7.1km、面積は1.31k㎡。沖之島は周囲5.1km、面積は0.95k㎡。面積の合計は2.26k㎡
※東京ドーム建築面積である46,755㎡=0.046755k㎡=約4.7ヘクタール(ha)≒215m四方≒400mトラック(陸上トラック縦:157.39m 横:73m 11489㎡)4個 東京ドーム48個分 陸上競技場400mトラック48×4個=192個
長崎湾の入口に位置する伊王島は、江戸時代よりもはるか前から海の玄関口となっていました。 島の口伝 によると、西暦391年頃、伝説にも多く登場する神功皇后が、朝鮮の新羅(しらぎ)征伐のおりに軍船をととのえるため、この島の船津に寄港しました。 その際に、この島を 「美しい島」と風光を賞し、祝詞(のりと)をたまわったという故事にちなみ「祝島(いわうじま)」となります。 また、「イヲウシマ」と書かれてある古地図があります。古くは魚のことを「いを」と言っていたことから、かねてからの豊富な漁場に浮かぶこの島のことを「いをしま」と呼んでいたのではないか、という説もあります。 ちなみに現在の名、伊王島の「伊王」は、「祝ふ」の当て字ではなく、昔の中国に海神、あるいは漁夫の神様の名前に由来するともいわれています。 大航海時代、長崎を訪れたポルトガル人の記録によると、伊王島は「カバロス」と呼ばれていました。カバロスとはポルトガル語で暴れ馬を意味し、荒れる波間から見た島姿が、暴れる馬のように見えたのでしょう。カバロスとは「暴れ馬の島」の複数形であることから、当時から伊王島、沖之島の両島を指し呼んでいたことがうかがえます。 803年:延暦(えんりゃく)23年頃、空海上人の時代には、遣唐使の船が小中瀬戸(伊王島と沖之島の間)を通ったと伝えられています。
1637年:寛永(かんえい)14年に起こった島原の乱の後は、佐賀鍋島藩によってこの島に警備隊が配備され、今もその遺跡が島の各所に残されています。長崎の儒者 西川如見(にしかわ じょけん)の『長崎夜話草』(ながさきやわぐさ)1719年:享保(きょうほ)4年には、伊王島の風物が記され、江戸時代、すでにこの島で暮らす人々の営みの様子がうかがえます。また、遥か昔から伊王島には泉湯(せんとう)があったようです。
伊王島灯台バス停横の夕陽ケ丘展望所からは、夕暮れ時、沈む太陽の光があたり一面をオレンジ色に染めます。展望所に設置されている双眼鏡を覗いてみると、高島の右肩あたりに世界文化遺産に登録された端島(軍艦島)を見ることができます。文字通り、美しい夕陽を眺めるに最も適した海を見渡す展望所です。そこから眺められる大パノラマは素晴らしく、水平線が丸みを帯びていることを実感できます。大変稀ではありますが、海面に直接沈む太陽を見ることができます。耳を澄ませてみると「ジュッ!」という音が聞こえてきそうな瞬間を楽しめる「One and Only(ここにしかない場所)」といえる伊王島のオススメ観光スポットです。
1866年:慶応(けいおう)2年に、英、米、仏、蘭の4ケ国と結んだ江戸条約の第11条により、観音崎(かんのんざき)、野島崎(のじまざき)、潮岬(しおみさき)、佐多岬(さたみさき)などと共に灯台の建設場所に、伊王島は選ばれました。 1870年:明治(めいじ)3年に仮点灯し、翌年の7月31日に完成しました。 我が国初の鉄造六角形の第1等不動白色反射灯で、英国人主席技師ブラントンの設計です。 1945年:昭和20年に長崎に投下された原子爆弾の爆風により灯台の塔部がゆがみました。1954年:昭和25年に現在の鉄筋コンクリート四角形に改築された際に、崩壊を免れた上部灯室(ドーム)を灯塔部に移設しました。 穏やかな海を見下ろす、風光明美な灯台の展望台からは、丸みを帯びた水平線を眺めることができます。 アーチ状のドアの上には、1881年:明治4年に初点(初点灯の意味)、2001年:平成13年に改築と刻印されたプレートあります。後方へ回り込むと、かつての六角形の基礎石組みが、残っています。 この地にたたずんでいる 灯台のドームは、130年を超える歴史をここから眺めています。周囲に広がるのは、静けさと言葉にできない鮮やかで美しい海の色です。
1877年:明治10年に完成した明治初期の洋館住宅です。 輸入セメントを使った当時としては珍しい無筋コンクリート造りで、日本におけるコンクリート建築物の草分けとして貴重な建物でもあります。
※長崎県指定有形文化財
この建物は灯台を建設した英国人主席技師ブラントンの設計で、伊王島の船津(ふなつ)の大工であった大渡伊勢吉(おおわたりいせきち)が棟梁として建てたものです。 日本で初めての灯台記念館で、室内には日本の灯台史の中における伊王島灯台の位置付けをテーマに資料が展示してあります。 明治生まれの屋根は、長年の風雪にも耐えて、今もなお瀟洒な姿を見せてくれ、青空を背景にした官舎の漆喰屋根と伊王島灯台のツーショットは、伊王島灯台公園のベストショットです。
【伊灯台記念館メモ】 現在は記念館としてかつて使用していた道具や明治の灯台文化の資料を保存、展示しています。
開館/9:00~17:00
休館日/月曜日(祝日・休日の場合は、以後最初の休日でない日)、12月31日~1月1日
入館料/無料
電話/095-898-2011
「平家にあらずば人にあらず。」とも語られていた平家全盛時代に、後白河天皇のために平氏を討伐しようと、鹿が谷の山荘で俊寛僧都、丹波少将藤原成経、平康頼ら密議を開きます。しかしクーデターは実行前に発覚し、首謀者の3人は1177年:治承(じしょう )元年に、俊寛僧都ら3名は硫黄島へと流刑となります。その後成経と康頼の二人は恩赦を受け京都へと帰ることができました。 なぜか俊寛だけは赦されず、一人だけ島に残されます。俊寛の召使いであった有王丸(ありおうまる)が、京都から島まで尋ねてきた際に俊寛の妻子が死んだことを聞くや、食を断ちその後この島で他界しました。 平家物語には有王丸が主人を荼毘(火葬)にふし、見晴らしのよい丘の上に葬ったと書かれています。 1817年:文化(ぶんか)14年頃に発刊された『長崎名勝図絵』(ながさきめいしょうずえ)にも俊寛僧都の史跡について記録されています。
詩人、童謡作家、歌人でもあった北原白秋は、1935年(昭和10年)に伊王島を訪れ、伊王島で悲運を嘆きながら亡くなった俊寛僧都に心をうたれ、1942年(昭和17年)に「多摩詩に伊王島」と題して長歌一首と反歌を詠んでいます。
※反歌とは長歌のあとにそえる(普通は一首の)短歌で、その長歌の要約や補足をするためのものです。
1950年(昭和25年)に、長崎県下の文人や地元の人々の篤志によって、ここに歌碑が建てられました。
反歌 「いにしえの流され人もかくありて すえいきどおり海をにらみき」
現代語訳すれば、「故郷からはるか離れた島へと流され何もできない私ではあるが、今まさに海の向こうで政(まつりごと)を担う平家一族の横暴な振る舞いは許すまい。」ということでしょう。
ゴシック様式のカトリック教会で国登録有形文化財となっています。 丘の上に建てられており、白亜の天主堂は伊王島の様子をいつも見守っています。 夜にはライトアップされ、昼間とは違う幻想的な姿を見せます。日本の伝統的な屋根瓦を教会のゴチック様式のデザインに融合させている美しさは、日本の大工技術のレベルの高さを証明しています。
馬込教会は、1871年:明治4年に「椎山小聖堂」(しいやましょうせいどう)と称する木造瓦葺 きの会堂が、馬込信者一同の手で作られたのが始まりでした。 その後、木造白亜(しっくい)のゴチック様式の天主堂をマルマン神父が設計し、伊王島灯台退息所や大明寺教会を建造した実績のある伊王島船津の大渡伊勢吉(おわたりいせきち)氏が大工棟梁でした。 しかし、初代の天主堂は昭和初期、落雷や台風のため倒壊したため、新しい天主堂に建て替えられることになります。 現在の美しい入江にたたずむ荘厳な教会堂は、1931年:昭和6年に松岡孫四郎(まつおかまごしろう)神父が全世界に呼びかけ、多くの人々の好意により完成したものです。 大工棟梁は伊王島船津の大和和吉(やまとかずきち)氏です。 現在地に煉瓦造の本格的天主堂が建設され、その後に続けて司祭館も建設されました。 この天主堂は、煉瓦造教会堂としては旧大浦(きゅうおおうら)、出津(いず)に次 ぐ最初期のもので、国の登録有形文化財になっています。
■馬込教会メモ
拝観/土日のみ 10:00~12:00、13:00~15:00
ライトアップ/18:00~22:00
電話/095-898-2054