伊王島|俊寛僧都の墓碑

平家の強権に逆らった俊寛

「平家にあらずば人にあらず。」とも語られていた平家全盛時代に、平清盛(たいらのきよもり)の専横を心よく思わず、後白河天皇(ごしらかわてんのう)のために平氏を討伐しようと、鹿が谷の山荘で密議が開かれました。

しかし、俊寛僧都、丹波少将藤原成経、検非違使判官(けんびいしはんがん)平康頼らが共謀した計画は、クーデター実行前に発覚し、首謀者の3人は捕らえられ、1177年:治承(じしょう )元年に、俊寛僧都は藤原成経、平康頼らと共に鬼界が島(きかいがじま)※1に流刑となります。

翌年、平清盛(たいらのきよもり)の娘が懐妊しますが、体調が思わしくなく、「苦しんでいるのは生霊のためであるから、流島の人を助けよ」と告げられた清盛は、成経と康頼の二人を赦して京都に帰しました。

なぜか俊寛だけは赦されず、一人だけ島に残されます。

俊寛の召使いであった有王丸(ありおうまる)が、主人の俊寛一人だけが赦されず残されたことを悲しみ、京都から島まで尋ねてきて俊寛に会いにきました。

有王丸から京都のようすや俊寛の妻子が死んだことを聞くと、「そなたが来てくれたことは嬉しい、しかしこの上そなたに苦労をかけるわけにはいかない。」と食を断ち他界しました。1179年:治承3年4月22日没。

有王丸は主人を荼毘(火葬)にふし、見晴らしのよい丘の上に葬りました。松を植えて目印にしたと平家物語には書かれています。

伊王島中央児童公園にある俊寛僧都の墓碑


伊王島中央児童公園にある俊寛僧都の墓碑

俊寛僧都が葬られた墓は、小高い丘の中腹にあります。長崎の俳人であった勝木枕山(かつきちんざん)は、1756年:宝暦(ほうれき)6年の著書『硫黄島名蹟』(いおうじまめいせき)で、 “武庫山”(むこやま)と書き記しています。この地は1643年:寛永(かんえい)20年、鍋島茂賢(なべしま しげつな)公が沖之島遠見山(おきのしまとおみやま)、伊王島番所に見張り所を置いていた時代です。

1755年:宝暦(ほうれき)5年に俊寛の霊を供養しようと、天龍法師(てんりゅうほうし)らが武庫山(現在の児童公園近辺)に長福寺(ちょうふくじ)を建てました。

その翌年には、天龍法師が長崎の儒学者勝木枕山等と共に俊寛の墓碑を建てます。

しかし、1843年:天保14年の台風で壊れたため、1845年:弘化(こうか)2年に勝木常永(かつきじょうえい)らによって再建されたのが現在のここにある墓碑です。

今では公園として整備され、春には毎年多くの人が訪れる桜の名所としても親しまれています。
※1現在の伊王島と考えられる説による。

俊寛僧都の墓碑
俊寛僧都の墓碑