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① 円通寺
 曹洞禅宗蓮台山円通寺は越前永平寺を本山とする深堀菩提寺の末寺で、元文4年(1739)菩提寺十二代桃龍玄浪和尚の隠居所として円通庵が建てられたに始まります。
 円通寺となったのは明治13年(1880)四等法地十六級に指定されたときで、現在の建物は昭和44年に改築されたものです。この寺には長福寺から引き継いだ俊寛僧都の像や遺品が宝蔵されています。

② 開基等雄と盲僧の墓(児童公園の北西)
 昭和50年(1975)俊寛僧都の墓碑の北西の藪の中から古墓2基が発見されました。等雄は宝暦13年(1736)盲僧は明和6年(1769)没と刻されています。二人は長福寺建立に大変尽力したと伝えられ敬慕されていました。

③ 長福寺跡(児童公園)
 宝暦5年(1755)俊寛を弔うとして、墓の横に建てられたとされています。昔は香焼も伊王島も真言宗の地盤でしたが、天文20年(1551)深堀菩提寺に禅宗が入り深堀藩鍋島となりました。 
延宝2年(1674)香焼島の円福寺も禅宗となり、元文4年(1739)伊王島に菩提寺の隠居所として円通庵が建てられたので、長崎清水寺の末葉天龍法師や等雄和尚たち真言宗の人々は、佐嘉武雄の黒髪山の末寺が廃寺になっていたのをもらいうけ、宝暦5年(1755)長福寺を建てました。しかし、長く続かず無住となったので、俊寛僧都に関する遺品は円通寺に引き継がれ宝蔵されて今日に至っています。

④ 北原白秋の歌碑(児童公園)
 俊寛僧都の墓碑のとなりにあります。白秋は昭和10年(1935)伊王島を訪れ、俊寛の哀史に心をうたれ、死ぬ前の昭和17年、多摩詩に伊王島と題して長歌一首と反歌を詠んでいます。昭和25年(1950)県下の文人ならびに地元の人々の篤志によって歌碑が建てられました。
反歌 いにしえの流され人もかくありて
   すえいきどおり海をにらみき

⑤ 俊寛僧都の墓碑(字瀬戸屋敷―児童公園)
 俊寛僧都は平清盛の専横を心よく思わず、後白河法皇のため平氏を討とう
と、鹿が谷の山荘で密議したが発覚し、治承元年(1177)藤原成経、平康頼と共に鬼界が島に流されました。成経の内室は清盛の弟教盛の娘であったので、教盛は自分が持っていた荘園佐嘉の嘉瀬の荘から仕送りするのに便利な彼杵のこの伊王島に三人を流し、京都には薩摩の硫黄島に流したと報告させました。
 のち成経、康頼二人は赦されて京都に帰ったが、俊寛ひとりが残され、この地でなくなったので有王丸が丘の上に葬ったとされています。 宝暦5年(1755)俊寛の霊を供養しようと天龍法師らが武庫山(字瀬戸屋敷―児童公園)に長福寺を建てました。その翌年、天龍法師は長崎の儒学者勝木枕山等とはかって、俊寛の墓碑を建てます。しかし、天保14年(1843)の台風で壊れたので、弘化2年(1845)勝木常永等によって再建されたのが現在の墓碑です。

⑥ 白髭神社(船津)
 船津郷の氏神として祭を続けています。祭神は竹内宿弥(たけうちのすくね)です。この島は遠見番所が出来たころから、武士が入っており、武運長久を祈って祭り初めたのではないかと思われます。昔は祭りには相撲など盛大にやり、長崎外海からも来島して賑ったと伝えられています。

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